有線放送電話の歴史
1939年頃より私設電話の形態で開始されたとされている。
放送機能を持ったものは、1944年に千葉県の亀山村(現在の君津市)の防空監視所・一般家庭で鴇田満により行なわれたラジオ共同聴取が最初とされる。1949年に近隣である松丘村の沖津一により通話機能を持ったものに改良され、1956年までに現在の君津市の市域に拡大された。
1957年(昭和32年)の「有線放送電話に関する法律」の制定施行に伴い郵政大臣許可により正式に日本全国で運用がはじまった。1964年に公社電話への接続通話・1985年に隣接市町村の有線放送電話との相互接続が解禁された。また、自動電話交換機の導入に対して電電公社の妨害があったとの説もある。
1969年に322万端末でピークに達した。その後、1958年に電電公社が開始した地域団体加入電話への置き換え・一般加入電話の普及、1985年以降のNTTの発足などの電気通信事業の自由化による他事業者の参入などで通話が減り、放送業務が中心となっていった。
1980年代には同報系市町村防災行政無線・1988年開始のオフトーク通信・1992年開始のコミュニティ放送、2000年代に入りケーブルテレビ・FTTHによるIP放送などの他の通信インフラストラクチャーへ放送業務も置き換が進み、老朽した設備の更新費用の負担問題などから廃止された地域も多い。
1997年9月より、長野県伊那市の「伊那市有線放送農業協同組合(愛称:いなあいネット)」でDSL利用実験が行われた。NTT東・西の電話回線より通信線路の芯線が太く抵抗値が低く、ISDNが無かったためである。以後、各地でADSLサービスが行われるようになった。
放送機能を持ったものは、1944年に千葉県の亀山村(現在の君津市)の防空監視所・一般家庭で鴇田満により行なわれたラジオ共同聴取が最初とされる。1949年に近隣である松丘村の沖津一により通話機能を持ったものに改良され、1956年までに現在の君津市の市域に拡大された。
1957年(昭和32年)の「有線放送電話に関する法律」の制定施行に伴い郵政大臣許可により正式に日本全国で運用がはじまった。1964年に公社電話への接続通話・1985年に隣接市町村の有線放送電話との相互接続が解禁された。また、自動電話交換機の導入に対して電電公社の妨害があったとの説もある。
1969年に322万端末でピークに達した。その後、1958年に電電公社が開始した地域団体加入電話への置き換え・一般加入電話の普及、1985年以降のNTTの発足などの電気通信事業の自由化による他事業者の参入などで通話が減り、放送業務が中心となっていった。
1980年代には同報系市町村防災行政無線・1988年開始のオフトーク通信・1992年開始のコミュニティ放送、2000年代に入りケーブルテレビ・FTTHによるIP放送などの他の通信インフラストラクチャーへ放送業務も置き換が進み、老朽した設備の更新費用の負担問題などから廃止された地域も多い。
1997年9月より、長野県伊那市の「伊那市有線放送農業協同組合(愛称:いなあいネット)」でDSL利用実験が行われた。NTT東・西の電話回線より通信線路の芯線が太く抵抗値が低く、ISDNが無かったためである。以後、各地でADSLサービスが行われるようになった。
白石記念館の設置陳情へ
君津市久留里地区にゆかりの深い江戸中期の儒学者・政治家、新井白石(1657~1725年)にまつわる資料を展示する「(仮称)新井白石記念館」を設置しようと、地元賛同者らが12日、署名活動のスタートを前に発足式を開いた。
白石は生涯に400点以上の著作を残し、日朝外交の修正、武家諸法度の草案作成など多岐にわたり活躍。延宝年間には久留里地区を治めていた土屋利直の寵愛(ちょうあい)を受け、右筆係として何度も同地区を訪れていたという。
今後、7月末にかけて署名を集め、9月市議会へ陳情する予定。記念館の建設は市が主体となり、地元は白石に関係する資料の提供などを担当するという。
白石は生涯に400点以上の著作を残し、日朝外交の修正、武家諸法度の草案作成など多岐にわたり活躍。延宝年間には久留里地区を治めていた土屋利直の寵愛(ちょうあい)を受け、右筆係として何度も同地区を訪れていたという。
今後、7月末にかけて署名を集め、9月市議会へ陳情する予定。記念館の建設は市が主体となり、地元は白石に関係する資料の提供などを担当するという。
「波の伊八」作と判明
「波の伊八」作と判明
師弟関係も明らかに 君津・岩田寺の力士像
発見までの経緯を報告する大野代表=19日、君津市大坂の岩田寺
君津市大坂の岩田寺(羽黒智章住職)の本堂屋根にある2体の力士像が、現在の鴨川市出身で「波の伊八」として有名な江戸時代の彫物大工、初代伊八(1752~1824)の作であることが分かり、19日、同寺で地元住民への報告会が開かれた。像の墨書きから伊八の師弟関係も明らかになり、学術研究面でも大きな発見となった。
伊八は現在の鴨川市西条地区で生まれ、安房・上総地域を中心に相模や江戸でも寺社彫刻を制作。躍動感ある波の表現から、現在では「波の伊八」の愛称で親しまれている。
伊八作と分かった力士像はいずれも高さ約100センチ、幅約70センチで、本堂屋根の北側と南側に1体ずつ設置。隆々とした筋肉は赤、髪は黒の塗料が使われ、目には銅板がはめ込まれた迫力のある彫刻だ。
以前から南側の力士像の背中に作者の墨書きがあることが知られており、今年1月に地元関係者でつくる「岩田寺本堂木彫調査会」(大野文義代表)が本格的な調査を実施。その結果、墨書きが伊八の直筆だと分かり、作者が断定された。
http://www.chibanippo.co.jp/news/chiba/local_kiji.php?i=nesp1271742208
師弟関係も明らかに 君津・岩田寺の力士像
発見までの経緯を報告する大野代表=19日、君津市大坂の岩田寺
君津市大坂の岩田寺(羽黒智章住職)の本堂屋根にある2体の力士像が、現在の鴨川市出身で「波の伊八」として有名な江戸時代の彫物大工、初代伊八(1752~1824)の作であることが分かり、19日、同寺で地元住民への報告会が開かれた。像の墨書きから伊八の師弟関係も明らかになり、学術研究面でも大きな発見となった。
伊八は現在の鴨川市西条地区で生まれ、安房・上総地域を中心に相模や江戸でも寺社彫刻を制作。躍動感ある波の表現から、現在では「波の伊八」の愛称で親しまれている。
伊八作と分かった力士像はいずれも高さ約100センチ、幅約70センチで、本堂屋根の北側と南側に1体ずつ設置。隆々とした筋肉は赤、髪は黒の塗料が使われ、目には銅板がはめ込まれた迫力のある彫刻だ。
以前から南側の力士像の背中に作者の墨書きがあることが知られており、今年1月に地元関係者でつくる「岩田寺本堂木彫調査会」(大野文義代表)が本格的な調査を実施。その結果、墨書きが伊八の直筆だと分かり、作者が断定された。
http://www.chibanippo.co.jp/news/chiba/local_kiji.php?i=nesp1271742208
平山用水のこと
小櫃川上流から中流域には、近世に作られた用水が多い。幕府領や旗本領が錯綜する当地方には珍しく、久留里藩や川越藩が広い範囲を支配していたからだ。久留里藩領では、戦国期に武田氏によって御腹川に大上堰が造られており、近世初期の寛永9年(1632)土屋氏によって長谷川堰が造られた。この2つの堰を合わせて御腹川用水という。この用水による灌漑面積は、270町にも及ぶ。川越藩領では、近世後期に4つの用水が造られた。その先がけとなったのが、君津市の亀山地区から松丘の平山地区に引かれた、「平山用水」である。以下、『君津市史』や『上総町郷土史』をもとに、「平山用水」の概略について記してみる。
平山村(現君津市平山)を流れる小櫃川は、川床が大変低く、田畑の灌漑には利用できなかった。天保3年(1832)の農地は、田が10町余、畑地が39町余と圧倒的に畑地が多く、村は大変貧しかったようだ。天保3年三本松陣屋に提出された「弁書」によると、総戸数71軒のうち「極貧の者20軒、難儀の者30軒」とあり、また、畑作物の収入30両に対し、飯米の購入費用が50両という状況だった。昔は「松丘には、嫁にやるな」と言われていたともいう。こうした状況を目の当たりにして、隣りの宇坪村に住む和算家、鈴木三郎左衛門は用水建設を思い立ち、文政2年(1819)川越藩に嘆願書を出したが却下されてしまった。改めて天保3年に、今度は、鈴木三郎左門衛とともに、名主長兵衛はじめ村中連名で嘆願書を提出すると、翌年許可が下りた。実に、鈴木三郎左衛門単独の嘆願から15年後のことである。
工事を請け負った、夷隅郡小苗村(現大多喜町)の五右衛門の記録によると、工事期間は計画では10ヶ月の予定だったようだが、実際は3年4ヶ月かかっている(完成は天保7年8月)。また、経費については、995両2分の見積もりであったが、実際には1615両(藩金)かかっている。工事には、のべ39094人もの人々が参加している。亀山郷52ヶ村の助郷でまかなわれた。小櫃川上流の取水口、坂畑村の稲ヶ崎から総延長約20kmに及び、工事は大変な難工事だったようだ。工期がそれを示している。
ところで、この平山用水は、地域の人々の生活をどう変えたのだろうか。田の面積は用水建設前の3倍強になったのだから、平山村の人々の生活は当然以前よりよくなったと考えるだろう。長い目で見れば、確かにそうだと思う。明治21年には、顕彰碑が建っているのだから。ところが、江戸時代に限って言えば、そうではないのだ。もともと川越藩は、収奪のきついことで有名で、亀山地区では、天保13年に大きな百姓一揆が起こっているほどだ(『富津市の歴史』参照)。どうも、田の増加に対して、年貢を重くしたようで、この後、度々生活困窮を訴える嘆願書が、平山村や亀山郷一円の村から川越藩に出されているのである。江戸時代に限って言えば、用水の完成は、平山村の人々の生活を向上させるどころか、より一層の収奪の強化を生んだのである。
下の写真(略)は、国道沿いの用水と分岐点、明治時代に建てられた「平山開墾碑」である。また、市の指定文化財である「平山用水開墾絵馬」が保存されていた大原神社である。絵馬は、現在、久留里城址資料館に保管されている。昭和62年には大原神社の鳥居の脇に、新しい「取水記念碑」も建てられている。この記念碑の後ろに広がっている場所が大原台といい、平山用水によって水田ができるようになったところの1つである。
なお、大原神社は、小櫃の白山神社や久留里の久留里神社と同格のかつての「郷社」で、境内には、写真のように立派な「神楽殿」なども残されている。祭神は、『君津郡誌』によれば、「天兒屋命」と「天太玉命」である。
http://www.geocities.jp/marusyou03/sub16.html
平山村(現君津市平山)を流れる小櫃川は、川床が大変低く、田畑の灌漑には利用できなかった。天保3年(1832)の農地は、田が10町余、畑地が39町余と圧倒的に畑地が多く、村は大変貧しかったようだ。天保3年三本松陣屋に提出された「弁書」によると、総戸数71軒のうち「極貧の者20軒、難儀の者30軒」とあり、また、畑作物の収入30両に対し、飯米の購入費用が50両という状況だった。昔は「松丘には、嫁にやるな」と言われていたともいう。こうした状況を目の当たりにして、隣りの宇坪村に住む和算家、鈴木三郎左衛門は用水建設を思い立ち、文政2年(1819)川越藩に嘆願書を出したが却下されてしまった。改めて天保3年に、今度は、鈴木三郎左門衛とともに、名主長兵衛はじめ村中連名で嘆願書を提出すると、翌年許可が下りた。実に、鈴木三郎左衛門単独の嘆願から15年後のことである。
工事を請け負った、夷隅郡小苗村(現大多喜町)の五右衛門の記録によると、工事期間は計画では10ヶ月の予定だったようだが、実際は3年4ヶ月かかっている(完成は天保7年8月)。また、経費については、995両2分の見積もりであったが、実際には1615両(藩金)かかっている。工事には、のべ39094人もの人々が参加している。亀山郷52ヶ村の助郷でまかなわれた。小櫃川上流の取水口、坂畑村の稲ヶ崎から総延長約20kmに及び、工事は大変な難工事だったようだ。工期がそれを示している。
ところで、この平山用水は、地域の人々の生活をどう変えたのだろうか。田の面積は用水建設前の3倍強になったのだから、平山村の人々の生活は当然以前よりよくなったと考えるだろう。長い目で見れば、確かにそうだと思う。明治21年には、顕彰碑が建っているのだから。ところが、江戸時代に限って言えば、そうではないのだ。もともと川越藩は、収奪のきついことで有名で、亀山地区では、天保13年に大きな百姓一揆が起こっているほどだ(『富津市の歴史』参照)。どうも、田の増加に対して、年貢を重くしたようで、この後、度々生活困窮を訴える嘆願書が、平山村や亀山郷一円の村から川越藩に出されているのである。江戸時代に限って言えば、用水の完成は、平山村の人々の生活を向上させるどころか、より一層の収奪の強化を生んだのである。
下の写真(略)は、国道沿いの用水と分岐点、明治時代に建てられた「平山開墾碑」である。また、市の指定文化財である「平山用水開墾絵馬」が保存されていた大原神社である。絵馬は、現在、久留里城址資料館に保管されている。昭和62年には大原神社の鳥居の脇に、新しい「取水記念碑」も建てられている。この記念碑の後ろに広がっている場所が大原台といい、平山用水によって水田ができるようになったところの1つである。
なお、大原神社は、小櫃の白山神社や久留里の久留里神社と同格のかつての「郷社」で、境内には、写真のように立派な「神楽殿」なども残されている。祭神は、『君津郡誌』によれば、「天兒屋命」と「天太玉命」である。
http://www.geocities.jp/marusyou03/sub16.html
終戦記念日の思い出
終戦記念日について、私は書くすべをもたない。
白川勝彦「永田町徒然草」から
http://www.liberal-shirakawa.net/
>終戦記念日の思い出
07年08月15日
今日は終戦記念日である。東京の武道館で天皇皇后両陛下御臨席のもと、全国戦没者慰霊祭が行われる。この慰霊祭は、先の大戦で亡くなられたすべての戦没者が対象である。靖国神社に祭られるのは、軍人軍属だけである。国が行う慰霊祭であるから、政教分離の関係で特定の宗教形式では行われない。今年もまた靖国神社問題が議論されるであろうが、国は戦争で犠牲になられた方々をこのように追悼・慰霊していることをこの際ちゃんと押さえておかなければならない。
終戦記念日というと私には忘れられない思い出がある。ひとつは1988年(昭和63年)の終戦記念日である。当時癌のために相当衰弱されておられ、那須の御用邸で静養されておられた昭和天皇が病をおして全国戦没者慰霊祭に御臨席された。当時私は郵政政務次官だったのでその慰霊祭に出席していた。昭和天皇が文字通り死力を尽くしてその慰霊祭に御臨席されたことに深い感慨を抱いた。これが昭和天皇の全国戦没者慰霊祭への最後の御臨席となった。昭和天皇の戦争に対する想いは、非常のものがあったと推察する。この時期になると元気づく右翼反動の先の戦争に対する思いと昭和天皇のそれはまったく別のものであることだけは確かである。
もうひとつは、1995年(平成7年)の終戦記念日である。その年の7月に行われた参議院選挙の後、村山富市首相が河野洋平外務大臣(自民党総裁)に対して「自社さ連立政権の首相を諸般の事情で私が務めることになったが、これはやはり不自然である。第一党の総裁であるあなたがやはり首相を務めるべきである」といった。これに対して河野外務大臣は、「党に帰って協議したい」と答え、この席に同席していた武村正大蔵大臣が、「それはちょっと話が違う」と口を挟んだという。いずれにせよ、河野首相の話は沙汰止みになった。
平成7年の参議院選挙も実は大きな意味をもっていた。小選挙区比例代表並立制の衆議院選挙制度はすでに確定していた。自社さ政権の野党は共産党を除きこの選挙制度を睨み、平成6年12月に新進党を結成していた。その新進党が比例区で18議席獲得したのに対して、自民党は15議席しか獲れなかった。これは自民党にとっては衝撃的な結果だった。2年以内にこの新進党と戦わなければならないのである。この選挙に臨むにあたり、自民党が政権党の一員であることは大事だが、もし自民党総裁が首相であればそれにこしたことはない。多くの党員もそのことを望んでいた。
私は河野洋平氏と同じ宏池会に属していた。平成5年の宮沢喜一首相の退陣後、自民党の大勢は渡辺美智雄氏を総裁にする流れだった。私は「野党になった自民党の葬儀委員長を選ぼうというのならばそれでも構いませんが、もう一度自民党を建て直そうというのならば私は反対です」といって、他派閥の若手と一緒になって自民党が敗北した衆議院選挙のとき「これからはサンフレッチェでいく」といわれた河野洋平・橋本龍太郎・石原慎太郎の中から選ぶべきだと主張した。
宏池会の若手は橋本氏を担ぐから他派の若手は河野氏か石原氏を担いでくれと私は主張した。宏池会の若手は橋本氏を担ぐ動きを現に行ったが、河野氏や石原氏を担ごうという他派閥の若手の動きは結局起きなかった。河野氏も石原氏も、私が思っていたより若手に人気がなかったのである。そのままいったら橋本氏と渡辺氏の戦いになったであろう。そうなるとその結果は分からなかった。癌のためにどう考えても総裁の職責を果たすことが無理な渡辺氏をその職に付かせることには無理があった。こうなると大勢も変わり、各派の幹部も渡辺氏という訳に行かなくなった。河野洋平氏を担いだのは若手ではなく、実は派閥の親分衆なのである。河野氏が渡辺氏を破り総裁に就任した。
私は派閥も違うし、大先輩であるので橋本氏とは付き合いもなかった。しかし、橋本擁立の先頭にたったのは、戦略的意図からであった。新聞記者に橋本氏の住所を聞いて川崎二郎代議士と橋本氏とあって、私たちは勝手に擁立するので総裁選に立候補して欲しいと話し込んだ。私たち宏池会の若手は橋本擁立のために何度も会合をもった。河野氏が立候補することになり、橋本氏は立候補を辞退することになったが、わざわざ私たちにそれでいいかと了承を求める会合をもったほどだ。橋本氏は意外に生真面目なところがあるのである。
私は河野氏が総裁になったことは良かったと思っている。同じ派閥だし、リベラル肌の政治家だから何の恨みもなかった。自社さ政権ができたのも河野氏が総裁だったからできたと思っている。しかし、村山首相から「河野さん、やはりあなたが首相をやりなさい」といわれたのに、逡巡を示したことは残念で仕方なかった。私たちは、2年以内に生きるか死ぬかの選挙を控えているのである。総裁はそのシンボルであり、総指揮官である。戦いに勝つためには、何よりも気迫が必要である。私は、この一事で河野氏にはこの気迫が欠如していると感じたのである。
亀井静香代議士から電話がかかってきた。「白川、あの河野で選挙は戦えるか」という。「あれではダメだな。党の総裁というのは、野球でいえば4番バッターである。4番バッターだからといっていつもホームランを打てとはいわないが、ど真ん中にストライクのボールがきているのにバットを振らないような4番バッターでは話にならない」と私は答えた。「橋本は、総裁選に出る気はあるだろうか」「私はあると思うよ。俺が話してみる」と電話を切った。
偉そうな話だが、亀井氏は2年前の総裁選で私たちが橋本氏を担いだことを知っていた。また当時私は商工委員長で橋本通産大臣とは仕事柄しゅっちゅう一緒だった。私は通産大臣室で橋本氏に単刀直入に話した。「ど真ん中にストライクの球が来ているのに、バットを振らない総裁では今度の選挙は戦えません。ぜひ総裁選に立候補してくれませんか。私たちは全力で応援します」 橋本氏も例の一件には危惧を抱いていたようである。橋本氏の表情が変わった。
「真剣に考えます。白川さん、少し時間を下さい」
私はこれで決まったと思った。後は私たちが勝手に動けばいい。亀井氏と会って、各派の影響力のある若手を集めることにした。その最初の会合を夏休み中ではあるが、政治家が集まる終戦記念日にしたのである。各派の戦闘力のある若手10人くらいが、慰霊祭が行われた後に集まった。そこで「橋本総裁を実現する会」が結成され、10日足らずで100名くらいの若手を結集した。橋本氏が立候補声明をするのにあまり時間や労力は要らなかった。河野氏は立候補をしないことになり、小泉氏が立候補することになった。
河野氏が犯したミスは、今回の安倍首相の失態に比べれば問題にならない小さいものである。それでも、戦う政党にとっては見過されることではなかったのである。自民党はもう戦う気がない政党になったのだろうか? 反省すべき点を反省すれば、国民の怒りは収まるとでも思っているのだろうか? いくら党・内閣の改造をしてみたところで、腐ったひん曲がった柱を取り替えないで、国民の支持が得られると本気で思っているのだろうか? 政治は一瞬の内に動くときは動くのである。志をもった政治家が集まれば、そういうことが起こるのである。いまの自民党や公明党の政治家は、一山幾らのバナナみたいなものである。こんな政治家集団に“改革”などできる筈がない。
それでは、また明日。
07年08月15日 12時10分AM 掲載 分類: 2.国内政治
白川さん、ありがとう。
白川勝彦「永田町徒然草」から
http://www.liberal-shirakawa.net/
>終戦記念日の思い出
07年08月15日
今日は終戦記念日である。東京の武道館で天皇皇后両陛下御臨席のもと、全国戦没者慰霊祭が行われる。この慰霊祭は、先の大戦で亡くなられたすべての戦没者が対象である。靖国神社に祭られるのは、軍人軍属だけである。国が行う慰霊祭であるから、政教分離の関係で特定の宗教形式では行われない。今年もまた靖国神社問題が議論されるであろうが、国は戦争で犠牲になられた方々をこのように追悼・慰霊していることをこの際ちゃんと押さえておかなければならない。
終戦記念日というと私には忘れられない思い出がある。ひとつは1988年(昭和63年)の終戦記念日である。当時癌のために相当衰弱されておられ、那須の御用邸で静養されておられた昭和天皇が病をおして全国戦没者慰霊祭に御臨席された。当時私は郵政政務次官だったのでその慰霊祭に出席していた。昭和天皇が文字通り死力を尽くしてその慰霊祭に御臨席されたことに深い感慨を抱いた。これが昭和天皇の全国戦没者慰霊祭への最後の御臨席となった。昭和天皇の戦争に対する想いは、非常のものがあったと推察する。この時期になると元気づく右翼反動の先の戦争に対する思いと昭和天皇のそれはまったく別のものであることだけは確かである。
もうひとつは、1995年(平成7年)の終戦記念日である。その年の7月に行われた参議院選挙の後、村山富市首相が河野洋平外務大臣(自民党総裁)に対して「自社さ連立政権の首相を諸般の事情で私が務めることになったが、これはやはり不自然である。第一党の総裁であるあなたがやはり首相を務めるべきである」といった。これに対して河野外務大臣は、「党に帰って協議したい」と答え、この席に同席していた武村正大蔵大臣が、「それはちょっと話が違う」と口を挟んだという。いずれにせよ、河野首相の話は沙汰止みになった。
平成7年の参議院選挙も実は大きな意味をもっていた。小選挙区比例代表並立制の衆議院選挙制度はすでに確定していた。自社さ政権の野党は共産党を除きこの選挙制度を睨み、平成6年12月に新進党を結成していた。その新進党が比例区で18議席獲得したのに対して、自民党は15議席しか獲れなかった。これは自民党にとっては衝撃的な結果だった。2年以内にこの新進党と戦わなければならないのである。この選挙に臨むにあたり、自民党が政権党の一員であることは大事だが、もし自民党総裁が首相であればそれにこしたことはない。多くの党員もそのことを望んでいた。
私は河野洋平氏と同じ宏池会に属していた。平成5年の宮沢喜一首相の退陣後、自民党の大勢は渡辺美智雄氏を総裁にする流れだった。私は「野党になった自民党の葬儀委員長を選ぼうというのならばそれでも構いませんが、もう一度自民党を建て直そうというのならば私は反対です」といって、他派閥の若手と一緒になって自民党が敗北した衆議院選挙のとき「これからはサンフレッチェでいく」といわれた河野洋平・橋本龍太郎・石原慎太郎の中から選ぶべきだと主張した。
宏池会の若手は橋本氏を担ぐから他派の若手は河野氏か石原氏を担いでくれと私は主張した。宏池会の若手は橋本氏を担ぐ動きを現に行ったが、河野氏や石原氏を担ごうという他派閥の若手の動きは結局起きなかった。河野氏も石原氏も、私が思っていたより若手に人気がなかったのである。そのままいったら橋本氏と渡辺氏の戦いになったであろう。そうなるとその結果は分からなかった。癌のためにどう考えても総裁の職責を果たすことが無理な渡辺氏をその職に付かせることには無理があった。こうなると大勢も変わり、各派の幹部も渡辺氏という訳に行かなくなった。河野洋平氏を担いだのは若手ではなく、実は派閥の親分衆なのである。河野氏が渡辺氏を破り総裁に就任した。
私は派閥も違うし、大先輩であるので橋本氏とは付き合いもなかった。しかし、橋本擁立の先頭にたったのは、戦略的意図からであった。新聞記者に橋本氏の住所を聞いて川崎二郎代議士と橋本氏とあって、私たちは勝手に擁立するので総裁選に立候補して欲しいと話し込んだ。私たち宏池会の若手は橋本擁立のために何度も会合をもった。河野氏が立候補することになり、橋本氏は立候補を辞退することになったが、わざわざ私たちにそれでいいかと了承を求める会合をもったほどだ。橋本氏は意外に生真面目なところがあるのである。
私は河野氏が総裁になったことは良かったと思っている。同じ派閥だし、リベラル肌の政治家だから何の恨みもなかった。自社さ政権ができたのも河野氏が総裁だったからできたと思っている。しかし、村山首相から「河野さん、やはりあなたが首相をやりなさい」といわれたのに、逡巡を示したことは残念で仕方なかった。私たちは、2年以内に生きるか死ぬかの選挙を控えているのである。総裁はそのシンボルであり、総指揮官である。戦いに勝つためには、何よりも気迫が必要である。私は、この一事で河野氏にはこの気迫が欠如していると感じたのである。
亀井静香代議士から電話がかかってきた。「白川、あの河野で選挙は戦えるか」という。「あれではダメだな。党の総裁というのは、野球でいえば4番バッターである。4番バッターだからといっていつもホームランを打てとはいわないが、ど真ん中にストライクのボールがきているのにバットを振らないような4番バッターでは話にならない」と私は答えた。「橋本は、総裁選に出る気はあるだろうか」「私はあると思うよ。俺が話してみる」と電話を切った。
偉そうな話だが、亀井氏は2年前の総裁選で私たちが橋本氏を担いだことを知っていた。また当時私は商工委員長で橋本通産大臣とは仕事柄しゅっちゅう一緒だった。私は通産大臣室で橋本氏に単刀直入に話した。「ど真ん中にストライクの球が来ているのに、バットを振らない総裁では今度の選挙は戦えません。ぜひ総裁選に立候補してくれませんか。私たちは全力で応援します」 橋本氏も例の一件には危惧を抱いていたようである。橋本氏の表情が変わった。
「真剣に考えます。白川さん、少し時間を下さい」
私はこれで決まったと思った。後は私たちが勝手に動けばいい。亀井氏と会って、各派の影響力のある若手を集めることにした。その最初の会合を夏休み中ではあるが、政治家が集まる終戦記念日にしたのである。各派の戦闘力のある若手10人くらいが、慰霊祭が行われた後に集まった。そこで「橋本総裁を実現する会」が結成され、10日足らずで100名くらいの若手を結集した。橋本氏が立候補声明をするのにあまり時間や労力は要らなかった。河野氏は立候補をしないことになり、小泉氏が立候補することになった。
河野氏が犯したミスは、今回の安倍首相の失態に比べれば問題にならない小さいものである。それでも、戦う政党にとっては見過されることではなかったのである。自民党はもう戦う気がない政党になったのだろうか? 反省すべき点を反省すれば、国民の怒りは収まるとでも思っているのだろうか? いくら党・内閣の改造をしてみたところで、腐ったひん曲がった柱を取り替えないで、国民の支持が得られると本気で思っているのだろうか? 政治は一瞬の内に動くときは動くのである。志をもった政治家が集まれば、そういうことが起こるのである。いまの自民党や公明党の政治家は、一山幾らのバナナみたいなものである。こんな政治家集団に“改革”などできる筈がない。
それでは、また明日。
07年08月15日 12時10分AM 掲載 分類: 2.国内政治
白川さん、ありがとう。
★今後は、「年中行事・考察」というテーマで掘り下げていく予定です。
こんにちは!
我が家の年中行事など、ざっと拾ってみました。
今後は、「年中行事・考察」というテーマで掘り下げていく予定です。
皆さんからの情報も、「掲示板」に書き込んでください。
@千葉県君津郡松丘村山滝野字小滝の掲示板
http://www3.ezbbs.net/23/kodaki-b/
龍泉寺新年大護摩法要(1月1日)
消防出初式(1月7日?)
蔵開き(1月11日?)
男のひあり(新年会)
女のひあり(新年会)
諸神講(昔は毎月、今は年1回)
子安講(昔は毎月、今は年1回)
組長引継ぎ(昔は1月15日、今は成人の日の前日、1月に5回やっていた飲み会も1回に統合)
お大師様(今はやっていない。昔は毎月、となりの集落ではまだ毎月実施)
野焼き(畦畔野焼き)
節分
真野の大黒天縁日(2月6日?)
お念仏
春分の日(お彼岸)
春まち(4月3日)
とっこんさま(4月11日)
十善講・徳本講(4月21日)
田植え
早苗宴(さなぶり)
みやなぎ(6月28日)
久留里祭り(昔は7月21日・22日)
風除け(昔は8月1日、今は7月の最終日曜日)
亀山湖花火大会(昔は8月16日)
新盆のお宅の盆棚つくり(8月12日)
迎え念仏(8月13日)
新盆のお宅のお見舞い(8月14日)
大原神社の祭礼(8月15日)
送り念仏(8月16日)
龍泉寺施餓鬼(8月20日?)
稲刈り
月見どろぼう、団子突き(十五夜)
お念仏
秋分の日(お彼岸)
秋まち(9月28日)
地上もち(11月28日)
川びたり(12月1日)
正月飾りつくり・餅つき(12月28日)
年越し
皆さんのお宅では、どんな「年中行事」がありますか?
どうど気軽に「掲示板」へ書き込んでください。
ではまた!
我が家の年中行事など、ざっと拾ってみました。
今後は、「年中行事・考察」というテーマで掘り下げていく予定です。
皆さんからの情報も、「掲示板」に書き込んでください。
@千葉県君津郡松丘村山滝野字小滝の掲示板
http://www3.ezbbs.net/23/kodaki-b/
龍泉寺新年大護摩法要(1月1日)
消防出初式(1月7日?)
蔵開き(1月11日?)
男のひあり(新年会)
女のひあり(新年会)
諸神講(昔は毎月、今は年1回)
子安講(昔は毎月、今は年1回)
組長引継ぎ(昔は1月15日、今は成人の日の前日、1月に5回やっていた飲み会も1回に統合)
お大師様(今はやっていない。昔は毎月、となりの集落ではまだ毎月実施)
野焼き(畦畔野焼き)
節分
真野の大黒天縁日(2月6日?)
お念仏
春分の日(お彼岸)
春まち(4月3日)
とっこんさま(4月11日)
十善講・徳本講(4月21日)
田植え
早苗宴(さなぶり)
みやなぎ(6月28日)
久留里祭り(昔は7月21日・22日)
風除け(昔は8月1日、今は7月の最終日曜日)
亀山湖花火大会(昔は8月16日)
新盆のお宅の盆棚つくり(8月12日)
迎え念仏(8月13日)
新盆のお宅のお見舞い(8月14日)
大原神社の祭礼(8月15日)
送り念仏(8月16日)
龍泉寺施餓鬼(8月20日?)
稲刈り
月見どろぼう、団子突き(十五夜)
お念仏
秋分の日(お彼岸)
秋まち(9月28日)
地上もち(11月28日)
川びたり(12月1日)
正月飾りつくり・餅つき(12月28日)
年越し
皆さんのお宅では、どんな「年中行事」がありますか?
どうど気軽に「掲示板」へ書き込んでください。
ではまた!