アクセスカウンタ

2007年7月のブログ記事  >>  zoom RSS

トップへ


★今後は、「年中行事・考察」というテーマで掘り下げていく予定です。

2007/07/31 12:32
こんにちは!

我が家の年中行事など、ざっと拾ってみました。

今後は、「年中行事・考察」というテーマで掘り下げていく予定です。

皆さんからの情報も、「掲示板」に書き込んでください。

@千葉県君津郡松丘村山滝野字小滝の掲示板
http://www3.ezbbs.net/23/kodaki-b/


龍泉寺新年大護摩法要(1月1日)

消防出初式(1月7日?)

蔵開き(1月11日?)

男のひあり(新年会)

女のひあり(新年会)

諸神講(昔は毎月、今は年1回)

子安講(昔は毎月、今は年1回)


組長引継ぎ(昔は1月15日、今は成人の日の前日、1月に5回やっていた飲み会も1回に統合)

お大師様(今はやっていない。昔は毎月、となりの集落ではまだ毎月実施)

野焼き(畦畔野焼き)


節分

真野の大黒天縁日(2月6日?)


お念仏

春分の日(お彼岸)


春まち(4月3日)

とっこんさま(4月11日)

十善講・徳本講(4月21日)

田植え

早苗宴(さなぶり)


みやなぎ(6月28日)


久留里祭り(昔は7月21日・22日)

風除け(昔は8月1日、今は7月の最終日曜日)


亀山湖花火大会(昔は8月16日)

新盆のお宅の盆棚つくり(8月12日)

迎え念仏(8月13日)

新盆のお宅のお見舞い(8月14日)

大原神社の祭礼(8月15日)

送り念仏(8月16日)

龍泉寺施餓鬼(8月20日?)

稲刈り


月見どろぼう、団子突き(十五夜)

お念仏

秋分の日(お彼岸)

秋まち(9月28日)


地上もち(11月28日)


川びたり(12月1日)

正月飾りつくり・餅つき(12月28日)

年越し


皆さんのお宅では、どんな「年中行事」がありますか?

どうど気軽に「掲示板」へ書き込んでください。

ではまた!
記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


★江戸期以前の「上総人(ざずさびと)」の気質について

2007/07/31 12:20
こんにちは!

当WEBサイトに掲示板を設置しました。
ご意見やご感想、「誤りの指摘」、「皆さんからの情報」
お待ちしています。

以前、★江戸期以前の「上総人(ざずさびと)」の気質について

ラジオだったか、本だったか、新聞だったか、はっきり覚えていませんが

「とにかく、神経質で、頑固者」と聞いたことがあります。

その例として、「正月のお飾り」、あなたのお宅では、いつ下げますか?
え、7日、はいはい、
あ、そちらでは、15日、我が家もそうです。

正月、昔は1月はすべて「お正月」だったようです。
その後、時が経過して15日になったようです。
そんな「お正月」ムードを短縮したのが、質素倹約を重んじた徳川幕府
7日に「正月お飾り」を下げることを奨励したようです。
でも、頑固な「房総人」はこれを受け入れず、15日にこだわって、現在に至っています。

下記のHP、参考にしてください。

>県民性ワールド
http://www2k.biglobe.ne.jp/~yano/KENMIN.html

ただし、今の千葉県の人口は、高度経済成長期の「社会増」の要素が強く。
君津市や木更津市は、九州から「町」が「どーん」と引っ越してきたようなものです。

私の通った高校でも、「土着」の家庭の生徒より、「新住民」の家庭の生徒の方が多く。
標準語は、「九州弁」でした。

残念ながら、「房総人」の気質についての「とにかく、神経質で、頑固者」の検証は、今回のリサーチでは見つかりませんでした。

細かい文献の中までは調査し切れませんでした。

以下、参考資料


>房総の風土・民俗・メッセージ
http://www.geocities.jp/nakazusa/saiziy/saizi.htm

http://www.geocities.jp/nakazusa/index.htm

http://www.geocities.jp/kytyparis/kyty8.html

千葉県「ぶんなぐる」食べる「ぶっかける」割る「おいない、おいねえ」悪い「がんだ」不良品「わら」おまえ「ほちほてる」浮かれてふざける「やろう、とうきょっぽだっぺ」あいつは東京に住んでいる人だ

(東京に対するあこがれが強い東京人になりたいがなれない、やる時はやる、遊ぶ時は遊ぶ、浮気に寛大全国ナンバーワン)     

千葉県人の大半は千葉都民という人種で、北部に住んでいて東京と深いつながりを持っている。そのためか郷土意識は殆ど無い。県政には無関心。粘りに欠けるうえ,全体的に弱気で流されやすい。明日の生活をエンジョイしたいタイプが多いから,目先のことしか考えない。したたかなで結構打算的。北部は堅実で真面目な人が多い。
南部・東部の人は義理人情型で,細かなことにこだわらない,明るくておおらかな楽天家が多い。8割が他県出身者で、東京、埼玉、北海道、茨城の順。北海道が多いのは漁業の関係、茨城は、昔からの繋がりが強かった為。気候が温暖、土地が豊かだったから、物事にこだわらない、人のいい楽天家が多い。その分、女性はとに角よく働く。順応性があって付き合い易い。土着の房総人は、ひとことでいえば"あけっぴろげ"。裏表がなく情に篤い。細かなことにこだわらない楽天家で、欠点も含めて自分を表現することに長けています。県北は徳島から移住者が多く、江戸との交流が盛んだったから、しっかりしたタイプが多く、理想家肌な人が多い。言いたいことはハッキリ口にする。千葉県人は自由奔放でエネルギッシュ、ときおり「なにをするかわからない」恐い魅力がある。「郷土(千葉県)が好き」というのは全国ワースト二位。一位は埼玉。サッカー柏レイソルの応援サポーターが礼儀行儀が悪くフイールドに暴れこむので防護柵を導入。運転マナーが悪いのはよく知られていて、シートベルト着用率全国ワースト一位をキープし続けている。家計調査年報で即席ラーメン購入額全国一位。カップラーメンの新商品を食べるのが千葉県人の密かな楽しみなのです。

これ、どう思いますか?

ではまた!
記事へなるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 1 / トラックバック 0 / コメント 0


★「千本城」で検索してみました。

2007/07/31 11:21
こんにちは!

この頃、パソコンの調子が・・・
すぐに固まってしまいます。
我が家の「東隣」(畑を挟んで)のお宅では、パソコンを新調
今は、安く、性能もアップしていますね。
私も買いたくなりましたが、パソコンだけならいいんですが
プリンター、スキャナ、MOなどなど
付属する機器の更新など無理無理!
まあ、この古いパソコンを労わりながら使っていきます。

では本題

「千本城」で検索してみました。

>千本城
http://www.asahi-net.or.jp/~ju8t-hnm/Shiro/Kantou/Chiba/Senbon/index.htm

築城時期等は不明。千本城主郭に建つ北野神社は長享二(1488)年、里見義実の創建と伝えられるが、里見氏がこの時期にこの地域に勢力を持っていたかどうかは不明。
天文年間に、一時里見義弘が付近の大戸城に在城していたといわれるが、実は千本城にいたのではないか、という説もある。
天正六(1578)年五月、里見義弘は佐貫城で死去した。義弘には晩年近くまで嗣子が無く、弟(庶子とも)の義頼を養子として後嗣にしていたが、晩年近くに正室(足利晴氏息女)に梅王丸が生まれ、義弘と義頼の関係は悪化、義弘の葬儀には義頼をはじめ安房譜代家臣団は参列しなかった。義頼は岡本城に在城して梅王丸と対立したが、千本城主の東平安芸守・右馬允(光徳)父子らを中心とした小櫃川流域の家臣団や大多喜城主・正木憲時、造海城主・正木淡路守時盛らは梅王丸を支持した。天正八(1580)年四月、里見義頼は東平安芸守らの立て籠もる千本城、久留里城などの小櫃川流域の諸城を攻めて降伏させ、次いで造海城の正木淡路守も降伏、佐貫城で梅王丸の後見をしていた加藤伊賀守信景の内通を誘い、佐貫城を開城させた。梅王丸は岡本城で出家させられ淳泰と号した。梅王丸の母と妹は高滝右京に預けられ、琵琶首館に幽閉された。
天正十八(1590)年の小田原の役の後、里見氏は豊臣秀吉によって上総を召し上げられたため、千本城も廃城となった。


>千本城(君津市広岡字曲輪)
http://yogokun.hp.infoseek.co.jp/senbonmine.htm


>千本城  二ツ引両:里見氏  千葉県君津市広岡字曲輪
http://www1.linkclub.or.jp/~part3/chiba/senbon/senbon.html

 千本城に関する記録はほとんどなく、創建は真里谷武田氏や長享2年(1488)に里見義実によるなどの説もあるが不明な点が多い。『里見氏系図』では里見義堯の実子梅王丸の記事に「上総国千本住人 東平安芸守女」との記事があるため東平安芸守が城主とも考えられている。また「関八州古戦録」では里見義弘没後に義頼・梅王丸との内紛で梅王丸は出家、勝った義頼は久留里・千本の両城を落としたとの記録もある。
 天正18年(1590)、関東が徳川家康の支配下となると同時に里見氏の所領は安房一国に減ぜられた。これにより千本城も約60年で廃城となってしまった。

結構、個人的に研究している「好事家」の方、歴史の分野では多いですね。
助かっています。

また、「松丘」のことが1つ判りました。

ではまた!
記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


★「重城 保」で検索してみました。

2007/07/30 11:22
こんにちは!

「重城 保」で検索してみました。


>重城 保- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8D%E5%9F%8E%E4%BF%9D

重城 保(じゅうじょう たもつ、天保4年4月17日(1833年6月4日)−大正元年(1912年)9月13日)は、上総国高根(現在の木更津市)の名主。後に千葉県の初代県議会議長、衆議院議員を務める。幼名は安次郎。

代々名主の家に生まれ、若い頃に正木幽谷・大槻盤渓に学んだ後、故郷に戻り家業に励んだ。明治5年(1872年)、当時の木更津県の郡中地券係に任じられて、当時の県令柴原和の面識を得る。その後千葉県の成立で柴原がそのまま同県令に転じると、柴原が力を入れた育児政策を実施する育児取締頭取を務めた。明治9年(1876年)に千葉県議会が設置されると、保は初代県議会議長となった。

当時、自由民権運動が盛んになり、各地で県令と県議会の衝突が起こった。だが、保は柴原県令と県議会双方に自重を求めて対立を回避する事に努めた。その後、明治11年(1878年)に安房郡、明治15年(1882年)に君津郡の郡長をそれぞれ務めた。

明治23年(1890年)、人々に推されて第1回衆議院議員総選挙に当選するが、保自身は自分はあくまでも農民であると考えて政治的野心を抱いていなかった。その後、1期で議員を辞めると公職からは身を退いて、晩年に至るまで自ら開墾事業の先頭に立った。

保が残した日記は後に『重城保日記』として刊行されて、幕末・明治期の地方の農村の姿を知る上での貴重な資料となっている。


>富津市の歴史
http://www.geocities.jp/marusyou03/sub3.htm

(1)富津市域及び周辺の百姓一揆、打ちこわし
 富津市周辺では、近世前期の一揆はあまり確認されてない。中期以降に年貢・諸役の増徴など新たな賦課に反対する一揆が目立ってくる。君津地方は、旗本領や幕領が錯綜しており、村という村落共同体全体でまとまりにくい環境にあった。百姓一揆が少なかった原因の一つではないかと考えている。例えば、小久保村(現富津市小久保)は1400石の大きな村であったが、多い時で5人の旗本の相給の時代があった。以下、君津地方の百姓一揆について、平凡社『千葉県の地名』や、山川出版『千葉県の歴史』などから紹介する。


>当山歴史
http://www.rr.iij4u.or.jp/~senchaku/rekisi-01_yurai.html

(一)選擇寺本尊
 昨年開創五百五十年慶讃・開山観誉祐崇上人五百回忌の記念式典を厳修致しましたが、その際、選擇寺の歴史について種々、お調べ致しました。「温故知新」の心を持って、檀信徒皆様にお伝え申し上げたく、今回の浄心より「当山歴史」と題し、掲載させて頂きます。選擇寺の古き歴史を検証することにより、明日の選擇寺興隆発展、仏教伝道に繋がるものと存じます。

 初回は「本尊由来記」です。漢文でありますので、読みやすい、書き下しにしました。当山のご本尊様が、どの様に伝わったかが記されています。


>君津地方歴史情報館
http://www.geocities.jp/marusyou03/top.html

これはすごいサイトを発見しました。
かなり価値のあるサイトです。

では、ここまで。

また、「郷土」の偉人を訪ねる旅に出掛けましょう!
記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


★「新井白石」で検索してみました。

2007/07/30 08:59
おはようございます。

「新井白石」で検索してみました。

>新井白石 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E4%BA%95%E7%99%BD%E7%9F%B3

先祖は、上野国の小領主であったが、豊臣秀吉の小田原攻めによって没落したとされている。江戸の振袖火事(明暦の大火)の翌日に、焼け出された避難先で生まれる。幼少のころより学芸に非凡な才能を示し、わずか3歳にして父の読む儒学の書物をそっくり書き写していたという伝説を持つ。

気性が激しいうえ、大火の翌日に生まれ、しかも怒ると眉間に「火」という字に似た皺ができるほどであるため、久留里藩主土屋利直から「火の子」という愛称をうけ、後年、幕府の反対派からは「鬼」と呼ばれ恐れられた。利直死後、跡を継いだ土屋直樹を仕えるに足らずと、父の正済は一度も出仕せず、ほどなく土屋家を追われる。



>新井白石
1657−1725
明暦3年−享保10年
http://www2s.biglobe.ne.jp/~MARUYAMA/tokugawa/hakuseki.htm


>松岡正剛の千夜千冊『折りたく柴の記』新井白石
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0162.html

 昔の人は、ふだんは無用の口はきかず、そのかわり言いたいことを言うべきときに言った。そういう言い草から『折りたく柴の記』は始まる。
 昔の人というのは白石の祖父の時代の人々のことであり、白石はその血を思い出しながら、この日本屈指の自伝を書きおこす。白石が「言葉の人」であり、かつ「家の人」であったことが、これだけで伝わってくる。


>新井白石 あらいはくせき
http://db.gakken.co.jp/jiten/a/005120.htm

(1657〜1725)江戸時代中期の儒学者・政治家。▽久留里(くるり・今の千葉県君津市)藩士の子として,江戸に生まれる。木下順庵(じゅんあん)に学び,その推せんで甲府藩主徳川綱豊(つなとよ)に仕えた。綱豊が家宣(いえのぶ)と改名して6代将軍になると,その政治を助けて活躍。7代家継(いえつぐ)の代にわたって7年余りの間,幕政の改革にあたった( → 正徳の治)。◇学者としてもすぐれ,自分のおいたちを書いた『折たく柴(しば)の記』や,日本に密入国したイタリア人宣教師から聞いてまとめた『西洋紀聞』などの著書がある。


>江戸幕府を改革せんとした人々
http://www.uraken.net/rekishi/reki-edo01.html

このシリーズは、江戸幕府を改革しようとした人たちについて特集します。
 いきなり結論から言いますと、以下に述べる人たちは誰も抜本的な改革に成功してはいません。一時的な延命策などが功を奏しただけで、根本的な問題を変えないまま幕末まで幕府を存続させたのです。もちろん、彼らがいなければ幕府はもっと早く滅亡してたのですが。  


>新井白石
http://www.ndl.go.jp/zoshoin/zousyo/01_arai.html


>新井白石とは - はてなダイアリー
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BF%B7%B0%E6%C7%F2%C0%D0

江戸中期の儒学者・政治家(1657〜1725).
上総国久留里藩藩士新井正済(あらいまさなり)の子.名は君美(きんみ),白石は号,字は在中・済美,通称は与五郎・伝蔵・勘解由.


>新井白石
http://www.city.ibaraki-koga.lg.jp/rekihaku/kikaku1/arai.htm

江戸時代中期の儒学者。
 長く浪人生活を送るが、天和2年(1682)、古河藩主で、時の大老堀田正俊(ほったまさとし)に仕える。のち将軍徳川家宣(とくがわいえのぶ)につかえ、和漢洋の知識を広く吸収し、幕府政治に積極的に発言をした。この時代の政治を正徳の治(しょうとくのち)という。


>近代天皇家と新井白石
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2006/09/post_18c4.html

 文仁親王妃、男のお子さまご出産、おめでとうございます。

 お子さまの皇位継承順位は、第一位皇太子、第二位文仁親王に次いで第三位となる。たぶん、この順で皇位が継がれていくか、あるいは皇太子の次となるかだろう。
 何年先のことになるかわからないが私はもうこの世にいないだろう。が、この慶事を聞いて私なども日本がそのころまで中国に飲み込まれることもなく存続していたらいいなという仄かな希望を覚える。
 テレビなどから見る日本庶民の喜びのようすは遠い親戚の本家の世継ぎが出来てよかったという気持ちのように受け止められる。もともと日本の庶民にはごく例外を除けば血統意識がなくあっても実際には家名の継続があるだけである。つまり、家の財産のシステムでもある。
 これで皇室典範改正は見送りになるだろうし、一世紀近くは女帝の登場もないということになるのだろう。私個人としては、「極東ブログ: 英国風に考えるなら愛子様がいずれ天皇をお継ぎになるのがよろしかろう」(参照)にも書いたように次第に女帝容認という流れになるかと思っていたが、そうはならないだろう。

まあ、こんなところで

また「郷土」の魅力を再発見する旅に出掛けましょう。

ではまた!
記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


★獅子神楽について

2007/07/30 08:37
おはようございます。

今日は、「獅子神楽」について調べてみました。

>県指定無形民俗文化財

獅子神楽 大戸見の神楽(おおとみのかぐら)
君津市大戸見・稲荷神社氏子
昭和36年6月9日指定
http://www.city.kimitsu.chiba.jp/kyoiku/SHO_GAKU/BUNKA/BUNKAZAI/minzoku_mukei.html

毎年8月3日(戦前は20日)の稲荷神社祭礼の時、拝殿わきの神楽殿で奉納される。

かつては、「入れ込み」といって氏子連が神楽宮を担ぎ笛太鼓勇ましく社前に参入し、所定の順序に従い宮元神楽から逐次奉納されたが、戦後は伝承者の太夫(たゆう)が高齢化し少なくなったため、宮元を中心に各地の太夫の連合によって一組だけ奉納されている。

この神楽は林治流儀といわれ、二人立ちの獅子を中心に、笛二人、大太鼓一人、小太鼓二人、鉦一人で構成され、神楽の舞は、一人で歩けない幼児期を表現する「おのう」「前かがり」に始まり、踊り手が幣(へい)を持って舞う「おん幣の舞」、そして「鈴の舞」、更には少年期を表現するという「くるい」、最後に「おくり」を演奏して終わる。

大戸見の神楽は、旧松丘地区の最も代表的なもので、楽が進むにつれて人がだんだん成長してゆく過程を表現していくものだといわれている。また、囃子(はやし)は「ばかばやし」「ごばやし」「ぎりんばやし」「あまだれ」が伝承されている。

当地区では、太夫後継者が途絶える寸前にあるので、数年前から無形民俗文化財保存会を組織し、学校の協力を得て、小・中学生の養成に努め、成果をあげている。



>君津市の無形文化財
http://www.city.kimitsu.chiba.jp/kyoiku/sho_gaku/bunka/bunkazai/minzoku.html


>神楽・概要
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%A5%BD

「かぐら」の語源は、「神座」(かむくら・かみくら)が転じたものとする説が一般的である。神座は神の宿るところを意味し、そこでの歌舞が神楽と呼ばれるようになったと考えられている。古事記および日本書紀においては、岩戸隠れの段でアメノウズメが神がかりして舞ったという神話が神楽の起源であるとされる。アメノウズメの子孫とされる猿女君は宮中において鎮魂の儀に携わっており、このことから神楽の元々の形は鎮魂・魂振に伴う神遊びであったと考えられる。

神楽は、宮中で行われる御神楽(みかぐら)と、民間で行われる里神楽(さとかぐら)に分けられる。里神楽はさらに大きく巫女神楽・出雲流神楽・伊勢流神楽・獅子神楽に分類され、これらの流れを汲んだ神楽が各地に存在する。近代に作られた神楽もあり、その中には多くの神社で行われているものもある。

獅子神楽

獅子舞の一種。風流系とは異なり、獅子頭を神体として各地を巡って祈祷やお払いを行う。二系統あり、東北地方の山伏神楽と、伊勢などの太神楽がある。


>関東地方(+福島県) 獅子神楽 芸能ごよみ
http://www.kumagaya.or.jp/~kame/koyomi/Shishikagura.html

地元、「平山・宇坪地区」の「大原神社」の「獅子神楽」はヒットしませんでした。

また、「松丘」の魅力を探す旅に出掛けましょう!

ではまた!
記事へブログ気持玉 0 / トラックバック 1 / コメント 0


★「松丘」の魅力を再発見する旅のスタート

2007/07/29 19:58
皆さん、こんばんは!

2007.7.29

本日、「ブログ」を開設しました。
「農村集落」からの「情報発信」です。

まずは、千葉を愛する仲間のご当地ソング「きん作カッポレ」(ダイジェスト版)、どうぞお聴きください!




私の住む「郷土・松丘」は、明治時代「日本一に模範農村」と言われていました。
インターネットなどで検索したWEBサイトは、「トップページ」にリンクしました。
これからも増やしていくつもりです。

今、私達が豊かに暮らせるのは、「郷土の先人」たちの「たゆまぬ努力」の上に成り立っています。
その事に感謝しつつ、私が調べた事をこの「ブログ」で「世界に向けて発信」していきます。

まず、この地域で全国に誇れるものを、ざっとあげてみましょう。
古いものから、

「川廻し新田」
(川廻しという方法で開墾された田んぼ・現在も耕作されている。)

「平山用水」
(江戸期後期の全国に先駆けた「一大用水事業」。この用水の成功で、「中間山村」にありながら、江戸期後期から「米作り」が可能になり、松丘は経済的にも豊かになり、「模範農村」、「文化農村」、「教育農村」と呼ばれるようになった。なお、現在も平山用水の受益地(田んぼ)は広大である。)

「上総掘り」
(明治初期に考案された、この地域独特の「突き掘り」と言われる井戸掘りの技術、材料に竹を使うことにより、掘削可能な深さを飛躍的に増大させた。「竹の文化圏の最高傑作」と言われている。これにより、平山用水のような事業の不可能な場所でも水利を得て「田んぼ」を作る事が可能になった。この技術は、水不足に悩む海外の地で、現在も活用されており、多くの命を救っている。)

「上総唐箕」
(この地域の農閑期の仕事として、東日本各地に「住み込み」で出かけて作られたこの地域独特の「唐箕」、全国の「唐箕」の中でも最も性能が良く、多くの農家に圧倒的に支持された。現地で作業場、住処を借りて、材料を調達して作成する「出張実演販売」の先駆けか?なかには、働きぶりに感心した農家が「婿入り」を希望した方もあり、埼玉などで「議員」をした方もあった。平成4年に我が家を建ててくれた「大工さん」も、「元上総唐箕職人」です。)

「有線放送電話」
(昭和30年代、全国の農村で一大ブームとなった「通話可能な有線放送システム」、実は「松丘」が発祥の地、これはネットで調べた記事を参照してください。)

「山の中のバッハ」
(ひょんなことから、房総の奥深い「松丘」に赴任した「佐治薫子?字が?」先生が、専門家をもうならせた「上総町立松丘中学校のリード合奏団(「金鈴合奏団」とも呼ばれていた。)、佐治先生は松丘での10年間を過ごした後、
習志野市や船橋市、市川市などの「小学校」で「オーケストラ」を結成、情熱的な指導で「NHK学校音楽コンクール」など、数々のコンクールで「日本一」に輝いている。小学校の教員を退任後、「千葉少年少女オーケストラ」の結成に参画、「音楽監督」を務めている。同オーケストラの技術は大変高度で「千葉県の宝」と言われている。なお、「佐治先生」のこのような功績は、「松丘の10年」を抜きにしては有りえない。昭和30年代、農村が輝いていた象徴でもある。生徒達の奏でる音楽は、「有線放送電話」でも常時流され、地域の住民に「勇気と誇り」を与えていた。)

そして現在、

城と歴史、名水の町として知られている「久留里」

新緑や紅葉の時期、多くの観光客で賑わう「亀山」

その間に挟まれて、「松丘には、なにも無い!」と嘆く人が多いが、「実は、そうではない。」
そんな「松丘」の魅力をあらためて発見する「地元学」、あなたも一緒に付き合ってみないか?

>「有線放送電話について」

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E7%B7%9A%E6%94%BE%E9%80%81%E9%9B%BB%E8%A9%B1

歴史

1939年頃より私設電話の形態で開始されたとされている。

放送機能を持ったものは、1944年に千葉県の亀山村(現在の君津市)の防空監視所・一般家庭で鴇田満により行なわれたラジオ共同聴取が最初とされる。1949年に近隣である松丘村の沖津一により通話機能を持ったものに改良され、1956年までに現在の君津市の市域に拡大された。

1957年(昭和32年)の「有線放送電話に関する法律」の制定施行に伴い郵政大臣許可により正式に日本全国で運用がはじまった。1964年に公社電話への接続通話・1985年に隣接市町村の有線放送電話との相互接続が解禁された。また、自動電話交換機の導入に対して電電公社の妨害があったとの説もある。

1969年に322万端末でピークに達した。その後、1958年に電電公社が開始した地域団体加入電話への置き換え・一般加入電話の普及、1985年以降のNTTの発足などの電気通信事業の自由化による他事業者の参入などで通話が減り、放送業務が中心となっていった。

1980年代には同報系市町村防災行政無線・1988年開始のオフトーク通信・1992年開始のコミュニティ放送、2000年代に入りケーブルテレビ・FTTHによるIP放送などの他の通信インフラストラクチャーへ放送業務も置き換が進み、老朽した設備の更新費用の負担問題などから廃止された地域も多い。

1997年9月より、長野県伊那市の「伊那市有線放送農業協同組合(愛称:いなあいネット)」でDSL利用実験が行われた。NTT東・西の電話回線より通信線路の芯線が太く抵抗値が低く、ISDNが無かったためである。以後、各地でADSLサービスが行われるようになった。

いかがでしたか?

また、一緒に「松丘」を旅しましょう!
記事へなるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 2 / トラックバック 1 / コメント 0


2007年7月のブログ記事  >> 

トップへ

「上総松丘.com(かずさまつおかどっとこむ)」 2007年7月のブログ記事/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる